SEASON3 ACT.15
ジェニファーは無事だ。というよりも元気いっぱいだった。相変わらず背後に仲間を引き連れて、翌朝マスコミの群れにまぎれて校門に立ち、デイビッドがあらわれるのを待っていた。
いや、そんなことよりも!
……た、大変なことに、なってしまった。
マルタンさんの運転する車で、学校まで来たけれど、その道のりの間中、ずうっとマルタンさんに、授業が終わるまで学校の敷地内から出るなといわれていたのだ。
それが……、出るはめに、なってしまった。
「……無線機、使えないのよね?」とキャシー。
キャシーとアーサーはリックの車で学校へ来たのだった。無事に再会できて喜んだわたしはキャシーに抱きつき、それぞれの身に起きたことを語り合った。ちなみにキャシーのパパは、C2U行きを断念し、おとなしく夜を過ごしたのだという。物質を溶かすとかいう液体については、リックがなんとかするとかけあっている最中らしい。というか、そ、それよりも。
「じゃあ、皆さん! おとなしくバスに乗るのよ!」
クラスを出る時、ミセス・リッチモンドが叫ぶ。もうこの歴史の授業、どうしてくれよう……!
マエストロに目をつけられていなければ、わたしにとっては喜ぶべき展開なのだけれども、いまやおそるべき授業に、なってしまっている。このクラスには、WJもデイビッドも、もちろんアーサーもいないのだ。
まさか、クレセント歴史博物館へ行くなんて!
「どうしよう……」
うろうろ禁止令が出されているのに、これは不可抗力だ。まだ午前中で、しかも三時限目だというのに、キャシーと二人で、仮病をつかうわけにもいかない。
「い、行くしかないわよ。大丈夫よ、こんな平日だし、先生もクラスメイトもいるし」
そう思いたい。
「でも、戻るまでわたしたちが博物館に行ってるって、WJもデイビッドもアーサーも知らない、よね?」
キャシーはわたしの手をぎゅうっと握り、
「も、もちろん、大人の人たちもね」
いっきにおっかなくなってきた。いや、これは仕方がない、なにしろ授業なのだから。
校舎を出ると、校門の前に小型のバスが駐車していた。わたしとキャシーは周囲を見まわしながら、おそるおそるバスへ乗り込む。やがてバスが出発して、ミセス・リッチモンドがなにかしゃべりはじめる。だけど意識がほかへ飛んでしまっているわたしには、内容はまったく耳に入らない。
「……デイビッド、今朝はいちだんともみくちゃにされてたわね」
窓側に座ったキャシーがこそこそという。パンサー引退会見を開いた翌日なので、待ち構えるマスコミの数が、いつにも増してすごいことになっていたのだ。それでもデイビッドのすごいところは、ひきつっていたとはいえ、笑顔で対応していたことだろう。その群れのすき間をぬうようにして、わたしとWJが校舎へ入り、アーサーとキャシーに会ったのだ。それからすぐさま事務員のオフィスへ行き、学食スタッフの件について訊ねたわけだけれども、合否がわかるのは明日らしい。
「……ニセケリー、受かるのかしら」とキャシー。
「受かっても来ないかもって、WJはいってたよ。わからないけど」
課外授業は楽しいはずなのに、わたしとキャシーだけが、心配することが多すぎて、どんよりしている。うううーん、なにごともなくランチの時間を迎えられるよう、祈るしかない……って、バスが信号待ちで停まるたびにビクついて、窓に顔をくっつけ、周囲を見まわすわたしたちって、まるでオオカミにおびえる子羊みたいで、かわいそうになってきた。いや、まあ、わたしはそんなにかわいらしい感じではないけれど。あああああ。
「あ、あやしげな車はないよね」とわたし。
「……たぶん、い、いまのところは大丈夫よ」とキャシー。
今朝の朝刊を見たかとキャシーに訊かれる。まだ見ていないと答えると、一面記事は警察に捕まるドン・ヴィンセントの写真で、飾られてあったそうだ。
「……すっごくにらんでいたわ。葉巻をくわえて」
マエストロに利用されたことを考えれば、ちょっとだけ同情できる……いや、してはいけない、ギャングなんだから。
バスの窓から、緑におおわれたクラークパークが見えてくる。そこでバスは右折して、ひたすら東へ向かって走りはじめる。前方に広がる海は、波間が日射しに反射してキラキラしているけれど、グイード・ファミリーのコンクリートとバケツが過り、思わず視線をそらしてしまう。
……場所的に嫌な予感がするのは、わたしだけだろうか? これはもう、ミセス・リッチモンドにぴったりくっついているのが最善だ、間違いない。
クラークパークと海岸沿いに挟まれた場所に、歴史博物館はある。市立図書館よりもさらに大きい、あっちが貴族の屋敷なら、こちらはまさに城といった風情。巨大な門をそなえた、左右に塔がそびえ立つ、石造りの建築物だ。
バスが門をくぐり、敷地内をゆっくりと左折する。駐車場には観光バスが並んでいるので、ちょっぴり胸をなでおろす。たくさんの人がいる場所に、マエストロはあらわれないはずだ。……た、たぶん。
「人がたくさんいそうね。変にうろつかなければ平気よ」
キャシーも同じことを考えていたのだろう、わたしたちは顔を見合わせてうなずき、バスを降りた。
ミセス・リッチモンドの背後にぴったりくっついて、博物館の中へ入る。吹き抜けの円形のエントランスに、カウンターがあって、ミセス・リッチモンドが手続きをはじめる。かなりたくさんの人がいるので、大丈夫だと思うのに、わたしもキャシーも落ち着かない。
「さあ、こっちよ! うろうろしないで、わたしに着いてくること!」
展示物はさまざまなカテゴリーごとにわかれて、展示されている。わたしたちが入った空間は、移民がこの地を開拓した時代のコーナーだ。ミセス・リッチモンドがしゃべりながら、ミニチュアや彫像の前を歩いて行く。そうして数十分が、なにごともなく過ぎた時だ。ミセス・リッチモンドから、四十分の自由時間を与えられた。
「テーマを決めて、レポートを書いてもらうから、自分の興味の幅を広げるのが先決よ!」
提出に遅れるとたんまりアーサーに叱られそうなので、真剣に取り組んだほうがよさそうだ。というわけで、キャシーと肩を寄せ合うみたいにして、十九世紀のクレセント・シティを再現した、巨大模型の前に立っていると、展示室へ入って来る、杖をついたおじいさんが視界に入った。
腰が少し曲がっている。赤いネルシャツにチノパン、バッグを肩に下げていて、薄めな色合いのサングラスをかけている。周囲に顔を向けながら、こちらに近づいて来る。巨大模型を挟む形で、わたしとキャシーの前に立つと、目が合ったのでにっこりされる。つられてわたしもにっこりしてしまった。
「……年をとると、こんな小さな文字は見えんなあ。困ったもんだ」
博物館のパンフレットを広げて、ひとりごとみたいにつぶやく。
ガイドを呼んできましょうかと、キャシーが声をかければ、お金がかかるからいいよといわれた。そしてまたにっこりする。
「ありがとう、親切な学生さん。遠い昔の、移民名簿を見に来たんだがね」
わたしとキャシーは顔を見合わせる。その展示室は、駐車場に面した塔の中だ。
「……連れて行ってあげない?」とキャシー。
わたしも賛成だ。というわけで、おじいさんと一緒に展示室を出て、エントランスを抜け、塔へ続く通路を並んで歩く。高い天井にライトが灯されてあるけれど、窓のない通路は薄暗くて、きゅうに人影がまばらになる。
……ん、ちょっと待って?
ふいにこの人は、変装したミスター・マエストロではないだろうかと考えて、足が止まる。
「ニコル、どうしたの?」
わたしよりも二歩ほど前を歩いていたキャシーが、おじいさんと一緒に振り返った。わたしを見て微笑むおじいさんの、皺に埋もれた大きな瞳が、サングラス越しにうっすらと見えたので、バカげた自分の考えに苦笑した。
マエストロはアイパッチをしているのだ。ローズさんは怪我のせいだといっていたから、傷だってあるはず。その傷はおじいさんの顔に見あたらないし、いくら変装の名人でも、瞳はどうにもならないはず! ……って、ああああ、デイビッド・ストレスに続く、このマエストロ恐怖症をなんとかしたい。
おじいさんがにっこりする。
「ほんとうにありがとう、かわいらしいお譲さんたち。塔はわかったから、ここで大丈夫だよ。おお、そうだ」
その時、首にネームプレートを下げた博物館員の女性が、書類を抱えて塔から出て来る姿が、おじいさんの背後に見える。
「ついでに、ひとつ教えてもらえんかね?」
おじいさんはそういうと、なぜか腕時計を見て、にやりとした。
「なんですか?」
キャシーがそういった直後だ。おじいさんは杖を床に放る。バッグの中へ右手を入れ、ピストルを取り出した瞬間、わたしは見てしまった。
こちらに向かって、歩いて来ていたはずの女性の動きが、不自然な恰好でピタリと止ったのだ。あ、と思ったのと同時に、おじいさんがわたしの額へピストルを向けた。
「親切で善良なお譲さんたち。お互いの友情を守りたいなら、わたしに教えてくれないかな?」
……ま、まさか。うううううう、いや、これは、あきらかに!
というか、やっぱりじゃない! くそう、わたしのバカ!
「お、お、教えるって、な、なにをですか!」
おじいさん、もといミスター・マエストロが、わたしにピストルを突きつけたまま、キャシーを見て不敵に笑う。
「誰かがわたしの楽しい盗み聞きを邪魔するため、奇妙な電波を流しているのでね。せっかくの情報源が絶たれてしまった。というわけでミス・ワイズ。バックファイヤーとはなんだ?」
バックファイヤー?
「か、火事のときに、ひ、火の勢いを止めさせるための、逆火のことだわ」
マエストロが失笑した。
「……そうかな? わたしにもそれぐらいの知識はある。十数えよう。ゼロになったら、きみの大事なお友達の額に穴を空ける。十、九……」
キャシーがわたしを見る。口をおさえる両手の指先が震えている。そしてわたしは完璧に凍っていた。身動きのとれないマネキンみたいになりながら、素朴な疑問が過る。いや、過っている場合ではないんだけれども!
視線だけを動かして見まわせば、なにもかもが止っているのだ。なのにわたしもキャシーも、そしてマエストロも動いているのは、なんで?
「……六」
そしてマエストロが、引き金に指をかける。ぎゅうっとまぶたを閉じたキャシーが、
「エ、エ、エキゾチックな物質を、溶かしてしまう液体のことよ!」
「ほう。それはどこにあるのかな? また十数えよう。十、九……」
キャシーが叫んだ。
「C2Uよ!」
両手で顔をおおって、その場にくずおれてしまう。もう、もう、んもう!! ものすごくおっかないのに、完璧に頭に血がのぼってきちゃった。
「う、ううううう、ひ、ひどい!」
こんな単語しか叫べない自分の首を、いますぐに思いきり締めたい。依然、わたしにピストルを向けているマエストロが笑った。そしてしゃがみ込んだキャシーに無情なセリフを吐く。
「わたしに会ったことは、誰にもいわないことをオススメしよう。パパにも、もちろんママにも、くっついている若い警官にも、ボーイフレンドにもだ。わたしは間抜けなギャングではない。少しでもおかしな行動をとる者がいたら、わたしは疑念を抱くだろう。そしてすぐに、きみの大事な誰かを殺す。わかるかな?」
……わかりすぎるくらいにわかります……って、いや、わたしが納得してどうするの!
するとマエストロが、まっすぐに伸ばした腕を、今度はキャシーの頭に向けた。その手にはピストルだ。サングラス越しにわたしを見すえて、口角を上げて笑う。顔はまんま別人のおじいさんだけれど、皮肉っぽい笑い方は、シティのヒーローの象徴だったのに。
「う、うううう、だ、だって、あなたは。あなたは目が」
「義眼というものを、知らないのかな?」
あ、知ってます。いや、そうじゃない!
「きみにも同じことを提案しよう、昨夜再会したばかりの、パンサーと仲良しのお譲さん?」
「あ、あ、あなたは。う、うううううう」
……どうしよう、頭に血がのぼっているというのに、なぜだかものすごく腑に落ちない。だって、ほんとうにカッコいい、スーパーヒーローだったのだ。悲しいやら、悔しいやらで、涙がにじんできた。
「わ、わたしは。……わ、わだじはあだだの、どおおおおっでもブヮンだったどに!」
恐怖でどもっているし、もはやなにをいっているのか、自分以外の人に伝わる気がしない、まったく。けれどもマエストロは察したらしい。にやりとしたまま、
「……それは光栄だ」
「ど、どうじで」
鼻水をすすったほうがよさそうだ。
「ど、どうして、悪いことをしている、んですか!?」
悪者相手にていねいな言葉を使ってしまう、自分の育ちのよさを呪うべきかも? いや、べつに育ちはフツー、なのだけれども、とか考えている場合ではないんだってば、わたし!
マエストロが苦笑する。
「……お嬢さん、きみには一生わからないだろう。いっそわたしと共に、なにもかも壊れてしまえばいいという、この衝動」
あああああ、どうしよう、まるっきり理解不能だ。
「そ、それって、街が、ということ? みんな? た、たとえばあなたの仲間とか家族とか、そのお……友達とか」
いるはずだ、というよりも「いた」というべきか? と、マエストロが声を上げて笑った。面白くないのに笑っているみたいな、乾いた笑い声がこだまする。そしてふ、と鼻で笑うと、キャシーにピストルを向けたまま、ふたたび腕時計を見る。顔を上げ、わたしを見てつぶやく。
「友達などいたこともない。わたしは化け物だから」
杖を拾い上げ、「時間だ」といって続ける。
「とりあえず生かしておこう。わたしには、いつでも選択できることだから」
マエストロはパチンと、左手の指を鳴らした。瞬時に博物館員の女性が歩き出す。
そこにマエストロの姿はすでにない。まるで煙みたいに消えたのだ。
★ ★ ★
マエストロは、わたしを誘拐したりはしなかった。代わりに悲しい言葉を残して、消えてしまった。
というか、なにかものすごくむなしい気分だ……。
バスが校門の前に停車するまで、わたしもキャシーもうなだれていた。キャシーはしゃべったことを後悔しているだろうし、わたしはわたしで、マエストロだと見抜けなかった腹立たしさにおそわれて、髪をかきむしりたい衝動にかられまくっていたから。
まあ、脱力しすぎていて、むしらなかったけど。
三時限目と四時限目をついやした博物館の鑑賞は、まるきり頭に入っていない。これはまたもや土曜日の、イケてない生徒認定イベントに参加するはめになるかもと、がっくりしながら学食に向かっていると。
「……ゴーストじゃなさそうだな」
背後からアーサーの声がして、飛び上がる。
「バスから降りてくるのが見えて、肝が冷えたぞ。まさか課外授業とはな」
「う、うん、まあ……」
人間観察が得意なアーサーは、避けたほうがいいだろう。ぐるんと顔を学食へ向け、わたしがいっきに大股で歩きはじめると、ぐいっと腕をつかまれてしまった。
「待て。ものすごくあやしいぞ?」
どうして? どうしてあやしいってわかるわけ!
「な、なんにもあやしくないよ。ね、キャシー?」
「そ、そうよ、アーサー! 全然楽しかったわ」
ふうん、とアーサーはわたしの腕から手を離し、眼鏡を押し上げた。
「あやしさ満載だが、あとで聞こう。それよりもニコル、かなしいお知らせがあるぞ」
え?
アーサーを振り返ると、立ち止まったアーサーは腕を組んで、
「経済学のクラスに、ジャズウィットもいるんだが」
WJがどうかしたの! 胸ぐらをつかむいきおいで、アーサーに近づいてしまった。
「な、なに!」
するとそこに。背後に仲間をしたがえたジェニファーがやって来て、わたしを見ると、いきなりぺちんと額を指ではじいた。う、い、痛い!
「な、なんなの!?」
「あたしがいったこと、忘れてないよね? あんたと超クールな男を、完璧にいちゃつかせるってやつ。あんたマジでがんばんないと、マズいかもって忠告しておくんだから!」
勝手に告げて、去って行った。……はあ? というか、ジェニファーのいう超クールな男の子って……、ダレデスカ?
アーサーが肩をすくめた。
「そういうことだ」
いや、答えになっていない。
「つまり。その授業中のとあるハプニングによって」
アーサーがにやりとする。とっても楽しそうだ……って、だから、なに!
「ジャズウィットの眼鏡が、壊れた」
「えっ!」
うっ!
……それはとっても、かなしいお知らせだ。