01:摩天楼ふたたび!
子どものころのスーパーヒーローは、黒いコスチュームに身を包んだその名も『パンサー』。
軽やかに空を飛ぶスマートなそのヒーローは、コミックの主人公でシリーズ化もされ、何度も映画化されている。王子様みたいな男の子が実はスーパーヒーローだったなんて、男の子はおろか女の子も夢中にさせる絶好のネタだ。しかもそれがただの夢物語なんかじゃなく、この摩天楼の街で活躍した実在のヒーローがモデルだなんて教えられたら、絶対ファンになってしまう。
わたしもそう。だから、そのモデルとなったヒーローが実は親戚のおじさんだったと知らされたときには、何日も眠れないほど興奮した。
そして、なんと。
そんなおじさんと食事をするミッションが、今夜のわたしには課せられているのだ。
「……行かないとダメかな」
気が重い。わけわかんないほどいろんなエンタメ事業とかアパレルブランドなんかを牛耳っているキャシディグループのCEOと、年に一度とはいえどうして食事をしなくちゃいけないんだろ。
「去年は喜んでいたのに、どうしたの?」
黒いドレスでバッチリきめたママが言う。今夜はパパとママの結婚記念日だ。二人きりの夜を楽しんでもらうとき、わたしのシッター役を買ってでてくれるのは決まってバツ二の独身、いまだ跡取りなしのデイビッドおじさんだった。おじさんのことは嫌いじゃない。むしろ、これでもかってくらいいろんなものを買ってくれるから、いままでは会えるのが素直に楽しみだった。
でも、去年。貸し切られた高級レストランのど真ん中で、あろうことかデイビッドおじさんはしくしくと泣きだしたのだ。
理由は、わたしがママに似てきたから。
わけがわからないけど、元ヒーローでクールなスーツに身を包んでいて、誰にも引けを取らないほどの容姿のおじさんは、高校生のときからママが好きで、いまだに引きずっているのだそうだ。離婚もそのせいだと、おじさんはすっかり思い込んじゃってる。
正直、意味がわからない。わたしのママは年齢よりも若く見えるけれど、モデルや女優みたいな外見じゃない。もちろん、ママのことは大好き。でも、超セレブなおじさんが片思いをし続けるようなタイプじゃないってことは、娘にだってわかる。だから思わず「なんで?」と訊いてしまった。
デイビッドおじさんは、しみじみと頬杖をついた。
「わかるよ。おれも自分に、いまだにそう問いかけているからね。なんでニコルなんだ? って」
答えになってない。とにかく、こんな会話をしたことなんてママには言えないし、パパにはもっと言えない。あれから一年が経ったわけで、わたしを見るたびに「ママに似てきたね」とパパも喜ぶほどだから、間違いなくおじさんの古傷をえぐるはず。
そういうわけで、気が重いのだ。いや、待って……そっか。一ミリもママに寄ってない感じにしていけばいいんじゃないかな。だったらここは思いきって、ヘビメタのクラブに出入りする感じのメイクとスタイルで行こうかな。それいいかも!
「デイビッドに断ろうか?」
タキシードを着たパパが、腕時計をはめながら寝室から出てきた。
「ううん、大丈夫。それよかパパ、今夜もめちゃくちゃかっこいいよ」
贔屓目に見ても、わたしのパパはかっこいい。若いころのモノクロ写真はいまいち冴えない感じだったけど、メガネのレンズが薄型になってからは別人に変貌していた。いろんな雑誌や新聞に記事を載せているジャーナリストで、本も何冊か出版している自慢のパパだ。
「ほんと! 若いころのいろんなことを思い出しちゃう!」
興奮したママがよろめいて倒れそうになるのを、わたしはとっさに支えた。小学校の先生をしていたママは、わたしが産声をあげたときから仕事を辞め、いまはときどき近所の子どもに絵を教えている。学校から帰ってきたとき、子どもたちよりもママのほうがインクまみれになって楽しそうにしている姿を、百万回は目にしていると思う。ほんと、おおげさじゃなくて。
照れくさそうにパパが微笑んだ。
「それはよかった。オペラだから久しぶりにはりきったよ。それに、記念すべき日だしね」
ママを見つめるとうっとりして、「今日も素敵だよ」なんて言う。二人して軽くハグをし、そのあとはとにかくベタベタするのがお決まりのコースだ。
それにしても、わかんないな。しつこいかもだけど、なんでママってこんなにモテるんだろ。
もしもいまママが高校生だったとしたら、絶対に目立たないグループにいて、なんならロッカーにいたずら書きされるくらいの存在のはずなのに。
そう。ちょうどここにいる娘のわたしみたいに……っていうか、両親が本気のキスをしはじめそうな場面とか、いまはご遠慮願いたい!
「はいはい、オッケー! ラブラブでわたしも嬉しいよ。ほら、もう出かけなくちゃ」
二人の背中をエントランスに押していく。
「ジーン、いやなら断ってもいいんだよ? もうシッターのいる年齢じゃないんだ」
パパが肩越しに振り返った。
「石油王並みのお金持ちにいまさら尻込みしただけだから、平気。去年約束しちゃってるから、ちゃんと行くよ」
「なにかあったら、携帯に電話してね」
ママがわたしの頬にキスをする。
「オッケー」
「ペンダント、なにがあっても外しちゃだめよ?」
わたしの名前の頭文字、『J』をかたどったトルマリンのペンダントは、物心ついたときからずっと首にさげている。ママとパパのわたしへの愛がいっぱいつまってるお守りは、眠っている間も身につける約束になっていた。なんだかまるで、悪霊から一人娘を守ろうとしている中世の夫婦みたいだよね。わたしのママとパパってほんとかわいい。
「外さないよ、大丈夫」
「それからいつものサプリメントも、ディナーの直前に忘れないで飲んでね。絶対よ?」
「わかってるから心配しないで、楽しんで!」
パパとママの頬にキスをして、二人を見送る。さて、わたしも急いで用意をしないと、おじさんのお迎えの車が来てしまう。
自室に直行。普段は聴かないハードロックのカセットテープをセットして、ガンガンにかけながら洋服を選んだ。前に古着屋で買ったドクロのTシャツって悪趣味かな。っていうか、どうしてわたしこれを買ったんだろ。ま、いっか。おどろおどろしいTシャツにダメージデニム、腰にシャツを巻いたらグランジスタイルの完成だ。くせ毛混じりの髪をジェルで逆立てて、アイホールを黒くする。唇も紫色に塗ると、うわあ……すっごい。魔界の住人みたいで最高。いや、どうだろ? なんにせよ、これでデイビッドおじさんを傷つける心配はしなくてすみそうだ。
小さめのショルダーバッグにあれこれ詰め込んで、サプリメントを持っていくため洗面所に行こうとしたとき、ベルが鳴った。お迎えにしてはまだ早いけど、もしかしてもう来ちゃった?
おそるおそるドアののぞき穴を見ると、立っていたのは二ブロック先に暮らす幼馴染、だけど学校ではわたしをガン無視する超優等生かつ人気者のヘンリー・フランクルだった。
「ヘンリー? どうしたの」
ドアを開けると、眉をきつく寄せたヘンリーは、なぜかそっとドアを閉めはじめた。
「ちょっと、待って! なにしに来たかだけ教えて帰って。気になっちゃうでしょ」
「……」
無言でシルバーフレームのメガネを指であげ、魔界の住人スタイルのわたしをまじまじと見下ろしてくる。
「その蔑んでるみたいな視線、やめてくれないかな。ちゃんとしたわけがあるの。知りたい?」
「遠慮する」
「だよね。っていうか、どうしたの?」
息をついたヘンリーは、得意の棒読みで言った。
「おれの母がものすごくいい感じにチョコチップクッキーを焼きあげたから、どうしてもきみに食べてほしいそうだ」
ロボットみたいな動きで、紙袋を差し出してきた。子どものころから家族ぐるみでつきあいのある幼馴染だけど、そのころから口調も仕草も市警部長のヘンリーのパパそっくり。
「ありがとう。あなたのママのつくったお菓子大好きだから、嬉しいよ」
ヘンリーのママとわたしのママは昔からの親友だ。わたしにはそういう友達がいないから、すごくうらやましい。でも、いいんだ。きっといつかわたしにも、生涯の友達ができるって信じてるから。
「以上だ。失礼する」
「明日また学校でね。あなたはわたしを無視するけど」
「無視はしてない。ただ、おれの目にきみが映らないだけだ」
「あっそ。とにかく、キャシーママによろしくね。ありがとう」
ヘンリーが帰ろうとした瞬間、黒塗りの高級車が歩道に寄せられて停車するのが見えた。運転手が後部座席のドアを開け、シックなスーツに身を包んだ男性がおりる。アパートメントハウスの玄関に続く階段を見上げた彼は、魔界の住人と化したわたしとヘンリーを交互に見るなりぎょっとして叫んだ。
「ジーン、いったいどうしたんだ! そいつとつきあってそうなったのか? おれは絶対に許さないよ!」
取り乱した様子で階段をあがってくると、ヘンリーをにらみすえた。
「久しぶりだね、フランクル家ご子息」
「その呼び方やめてください。おれにもヘンリーっていう名前があるんですよ。キャシディさん」
「……その口調、その態度。なんて悪夢だ。会うたびに思うけれど、きみはきみの父君に似すぎだよ」
「光栄です。では、これで」
「待つんだ。きみはいつからジーンとつきあってるんだ?」
「つきあってない!」
「つきあってません」
わたしとヘンリーの答えが重なる。
「本当かい?」
「本当ですよ。なんなんですか」
ヘンリーを見つめたデイビッドおじさんは、彼の眼差しに嘘がないことを悟ったのか、ふうと安堵の息をつく。
「悪かったね。たしかにきみがきみの父君のDNAを受け継いでいるとすれば、ジーンはきみのアンテナにかすりもしないはずだ。忘れていたよ」
うっすらディスられた気がするけど、気のせいってことにしておこう。
「気をつけて帰りたまえ」
ヘンリーの肩を軽くたたく。げんなりしたヘンリーは、関わり合いたくないとでも言いたげに早足で去っていった。
「さあ、ぼくのキュートなお姫様。食事に行こうといいたいところだけれど、そのスタイルはいったいどうしたんだ?」
おじさんの古傷をえぐらないためですなんて言えない。
「は……流行ってるから、いいかなって」
「きみのアイデンティティには敬意を表したいけれど、忙しいおれの一年に一度のお楽しみなんだから、ぜひとも変身してもらわなくちゃね。さあ、おいで。今夜はたくさんサプライズを用意しているんだ。欲しいものはなにかな?」
なんにもわかっていなかったころは嬉しかったけど、買い物の桁がおかしいって気づいてからは緊張するようになってしまった。わたしの身の丈にあっていない物なんて、たとえ親戚のおじさんからの贈り物だとしても遠慮したい!
「あ、ありがとう。でも、なんにもないよ。おじさんとおいしいものさえ食べられたら、それで十分だから」
うっと口を手でおさえたおじさんは、涙目でわたしを見た。
「……そんなことを言ってくれるのは、きみかきみのママしかいなかったよ。さあ、車に乗って。遠慮はなしだ。そうだ、きみの名前をつけた無人島なんてどうかな?」
絶対にいらない。
「あ、ありがとう。でもそれは、ほかの人のためにとっておいたらどうかな?」
ドアに鍵をかけて、おじさんと階段をおりる。後部座席に乗り込むと、車が走り出した。
「それは?」
横に座るおじさんが、紙袋を見た。ヘンリーのママがくれたお菓子をうっかり持って来てしまったと思った瞬間、サプリメントを忘れたことに気づいた。
「あっ」
「どうしたんだい?」
鉄分とかビタミンが不足しがちな体質だと教えられて、子どものころから欠かさずに飲まされていたものだけれど、一度くらい忘れたってきっとどうってことないはず。だって、ただのサプリだもん。
「大丈夫。なんでもないよ」
夜の通りを、車は過ぎていく。
かつては悪党がはびこり、スーパーヒーローのいた摩天楼の街を。
それらもいまでは映画やコミックの世界だけになった、平和でクリーンなこの街を。