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終ノ章
把手共行
其ノ97

 朝顔柄の藍色の浴衣は、母さんが夏に着ていたものだ。
 その日の夜、わたしの部屋に来た父さんが、畳に広げて見せてくれた。帯はうぐいす色。父さんは浴衣だけじゃなく、小物や草履も大事にとっておいてくれていたらしい。
「着付けは檀家さんに頼んでみよう」
「あ、大丈夫。自分で着られるよ」
 思わず口から飛び出てしまい、父さんは目を丸くした。
「そうなのか? おまえはいつ覚えたんだ」
 いやもうほんと、それなんすよね……。覚えた記憶もないのに自分で着られるってわかってるのが、本気で謎すぎて怖い。でも、なんとなくだけれどうっすらとした予感もある。
 きっとわたし、地獄で着物を着てたんだろうな……みたいな。
「テ……テレビ?」
「教育番組かなにかか? まあ、なんにしても着付けができるのは喜ばしい。それは今日からおまえのものだ。大事にするんだぞ」
 そう言って、父さんが障子に手をかける。
「あのさ、父さん。ほんとにいいの?」
「いいって、なにがだ」
「お、鷹水さんと……お祭りに行ってもいいのかなって思って」
 一応、鷹水さんは見習い中の坊さんだ。それに、確実に人じゃない。でも、父さんはにっこり笑って自分のつるつる頭を撫でた。
「どこぞのおかしげな若者と出掛けるくらいなら、鷹水さんをお目付け役にしたほうが安心だ。金魚を釣って綿あめを買うぐらいのおこづかいは鷹水さんに渡しておくから、なにも考えずに楽しんできなさい」
 障子を開けて、廊下に出る。
「人間というものは間抜けなものだから、いつでも明日があたりまえのように訪れると思い込んでしまう。失ってはじめて、そのことに気づく。まあ、あれだ。なにごとも、後悔のないように過ごさなくてはいかんということだな。そういうことだから、堂々と行ってきなさい……なんちゃって」
 かっこいいことを言った照れくささからか、父さんは昭和っぽくおどけて障子を閉めた。
 よろしくない男子と娘がつるむより、日々真面目におつとめをこなす鷹水さんと一緒にいるほうが安心ということらしい。
「あ、そっか。父さん的にまだお婿さん候補なんだな……」
 鷹水さんを普通の人間だと信じているらしい。けど、そうなるとさっきの言葉がやけに引っかかる。

 ──失ってはじめて、そのことに気づく。

 まさか、本当は父さんも鷹水さんの正体を知ってたりして。いや、母さんのことがあって言っただけかな。
 大福とリョーちゃんの訴えも信じていなかったし、なにか勘づいてる素振りもない。鷹水さんは、父さんがなにもかも知っていてなお、自分をかばってくれてるみたいなことを言っていたけれど、それもさすがにかいかぶりすぎだ。
 たぶん、父さんはなにも知らない。まあ、娘の勘にすぎないけどさ。
 とにかく、それはいい。よくもないけど、父さんのことはいまはいい。
 畳の上に正座して、母さんの浴衣を見つめる。学校での出来事が頭から離れなくて、何度もため息をついてしまう。
 
屋上で鷹水さんを見送ってから教室に戻ると、衣心はまだぼうっとしていた。昼休みになっても不気味におとなしく、ずっとぼんやりした状態だった。
 覚醒したのは放課後になってからで、
「おい、山内」
 帰り際に玄関でつかまった。
「な、なにさ」
「あいつ、俺になんかしただろ。マジで頭きたし絶対に許さねえからな。つっても、どうせいなくなるからどうでもいいけど」

 いまさらだけど、自信満々に言い放ったあの顔に、渾身のパンチを捧げるべきだった!
「……うう、ムカつくけどどうしようもない」
 悔しさで身悶えながら、壁を見上げる。「雨市」としるした半紙を視界に入れても、かすかに胸がきゅっとするだけで、思い出せることなんてなにもなかった。
「……もうダメだ、これ」
 言葉にすると、じわりと目に涙が浮かぶ。このままだと、お祭り前に精神が崩壊しそうかも。とはいえ、だからこそ、せめて当日は楽しく過ごしたい! 体力温存のためにとにかくひたすら眠ろうと、部屋のすみに浴衣セットを寄せ、わたしは布団を敷いて早々に眠った。

 

 

♨ ♨ ♨

 

 

 そもそも、鷹水さんの賭けの期限っていつまでなんだろ。っていうか、もしかしてお祭りの前だったりとかしたら、その前にいなくなってしまうんでは……?
「……それはヤバい」
 とうとうぱっちりと目を開けてしまった。深夜になっても眠れないどころか、さらに頭は冴えていく。こうやってただ悶々と過ごして時間を無駄にしてる場合じゃない!
「もしかして、もういなくなってたりして……?」
 自分が思い出せないなら、鷹水さんのいなくなるタイミングまで見張ったほうがいいのでは?
「……そうだよ。だってさ、さよならぐらいは言いたいもんね!」
 とっさに起きて障子扉を開ける。居間の灯りはすっかり消え、廊下も真っ暗で物音ひとつしない。
 廊下を挟んだ真正面、鷹水さんの部屋の障子を前にして正座し、耳をすます。かなり不気味でストーカーっぽいのは承知のうえで、じっと動かずに息を殺した。
 なんだろ、なんかおかしい。いつにも増して静かすぎるような気がするのは、わたしの気のせい?
 え……どうしよう、鷹水さんはもう消えてて、この部屋の向こうにいなかったりして! い、いやいや落ち着け。きっとまたお墓で煙草吸ってるかもだし、そうじゃなければ鳥になって飛んでるかも?……って、ただ飛んでるだけならいいけど、そのまま戻って来なかったら……。
「……どうしよう」
「どうもしねえよ」
 いきなり障子が開く。鷹水さんはあくびを堪えながら立っていた。ああ、よかった、まだいた!
「眠ってたんすね!」
「夜中だからな。廊下にいるような気がしたら、やっぱりだ。どうした?」
「静かすぎるし、もういないのかもとか思いまして……。ってか、いっそいなくなるタイミングまで見張ろうかな……みたいなアイディアが浮かんでしまいまして……!」
 寝不足プラス、メンタルが弱りきってる状態で返答する。すると、鷹水さんはちんまり座ってるわたしを見下ろして困惑した。
「なにしゃべってんのかさっぱりだ。さては、ちゃんと寝てねえな?」
 はい、まったく。
「……なんか、もうガチで思い出せそうもないんで、せめてさよならぐらいは言いたいなって。鷹水さんがいきなりいなくなったらそれもできないから、いなくなるタイミングつかまないとって思ったっていうか……」
 しょんぼりとうなだれる。鷹水さんが目の前にしゃがんだ。
「……いますぐいなくなったりしねえよ。とにかく寝ろ」
「とか言って、いなくなるかもしんないじゃん……」
 そう口にしたとたん、見張りながら眠れる画期的な方法を思いついてしまった。
「あっ!」
「今度はなんだ」
「待って、いい方法ある!」
 立ち上がって自分の部屋に入り、ずるずると布団を引っ張った。
「いや、おい。なにしてる」
 そう、いっそ鷹水さんの部屋で眠ればいいのだ!
「見張るためっすから──!」
「──待て!」
 とっさに動いた鷹水さんは、文机の灯りをパッとつけた。
「なんすか?」
 部屋に布団が半分入った状態で、わたしは動きを止める。
「自分がなにしてんのか自覚しろ……って、まともに寝てねえからおかしくなってんだな。とにかく落ち着け」
 ここで眠るメリットは多々ある。鷹水さんの深夜の行動が把握できるし、この世界からいなくなりそうな場合、なにがしかの物音がたつはずだ。そのときに目覚めたら別れを惜しめる。いいじゃん、これのなにが悪い!?
「見張るためっす!」
「いや、それはわかった。わかってんだよ。でもな、なんつーかなあ……」
 鷹水さんが言いにくそうにして突っ立っている間に、自分の布団を無事に設置し終えることができた。とはいえ、四畳半という狭さなので、ものすごいぎゅうぎゅうな状態になってしまった。枕が文机の足にぶつかってるものの、まあいい。とにかくこれで、心置きなく見張れるもんね!
 鼻息荒く布団の上に正座すると、鷹水さんは腕を組んでしゃがむやいなや、ぐったりと頭を垂らした。
「……おかしいだろ」
「おかしくないっす。これで鷹水さんが消えそうなときも察知できるんで。だから、これでいいのだ!」
 賭けの期限は絶対に近い。あと数日で、鷹水さんは消えてしまうかもしれない。自分の部屋でのんびり眠っている間に消えちゃって、目覚めてびっくりして父さんと慌てたりとかしたくないんです。切実に!
「いいのだ……じゃねえよ。あんたの気持はよくわかった。けど、さすがにこれはねえぞ」
 困り顔で、わたしに近づく。
「あんたも気づいてるとおり、俺の具合は最悪だ。昼間みてえに姿を変えたくてうずうずしてる。けど、長い時間あの姿でいれば、二度とこの姿に戻れなくなるかもしれない。地獄に戻されるんのは仕方ねえさ、もともとその世界の住人だしな。けど、だからこそここにいる間だけでも、なんとか人の姿でいてえんだ」
「……はあ」
 鷹水さんの顔が近づく。それにしてもきれいな顔だなあ……なんて、みとれてる場合じゃなかった。
「わかってねえな」
「ぶっちゃけ頭まわってないです」
「だろうな。つまり、ようするに俺は一日中、本能を押さえ込んで我慢してるってこった」
「はあ……で?」
 鷹水さんの表情がひきしまる。
「だから、あんたにそばで寝られると、なにしでかすかわかったもんじゃねえってこった。ただでさえ手を出したくてたまらねんだよ。最後と思えばなおさらだ。でも、あんたを大事にしたいし、世話になった和尚を裏切りたくもねえ……って、ほんとにわかってねえな、その顔は。もう目が開いてねえぞ、おい」
 鷹水さんがなにやら必死で訴えているのはわかってる。わかってるけれども、見張れるという安心感からかまぶたがどんどん重くなる。
「……まあ、静かに寝ますんで、わたしのことはどうぞ気にしない方向で大丈夫です。でも、いなくなるときは大きな物音たててください。目覚めはいいほうなんで、たぶんすぐ起きまっす……」
 おい待て寝るなと言う声を耳にしつつ、布団をめくって潜り込む。障子を開けたままなので、鷹水さんの布団側を背にして寝返りをうつと、廊下が丸見えになった。
 とにかくよかった。これで、さよならを言うチャンスを逃さなくてすむ。
 ほっとしたのと同時に、鷹水さんのため息がかすかに聞こえた。と、鷹水さんも自分の布団に入った気配を感じる。とりあえず、今夜は消えそうもなさそうだ。でも、ガチ寝体制にはいる前に、念を押しておこう。
「消えるってときになったら、ホントにガチで音たててくださいよ。さよなら言うためにここにいるんすから」
「……わかったよ」
 鷹水さんのことを、なにひとつ思い出せそうもない。その事実がなかなか受け入れられなくて、やるせなくてまた泣きそうになったとき、父さんの言葉が蘇った。

 ──なにごとも、後悔のないように過ごさなくてはいかんということだな。

 たまにちゃんとした坊主っぽいこと言うよなあ、父さん。
 ふふふ。ひとりほくそ笑もうとした矢先、とあるポイントに気づいてしまった。
 あ、そっか。ヤバい。わたしが学校に行ってる間に消えられたら、この努力(なのか?)も水の泡になるんじゃないのか!?
 はっとしてまぶたを開け、
「──そうだ! 昼間いなくなるってのもナシな方向でお願いします!」
 ぐるんと寝返りをうったとたん、鷹水さんと目が合って息が止まりそうになる。なんと、鷹水さんは布団に右肘をたてて頭を支え、こちらを向いて起きていたのだ。
「え、寝てない?」
 その格好を崩すこともなく、鷹水さんは呆れたようににやりと笑った。
「……寝れるか、ボケ」
「いや、寝てください。わたしも寝ますんで。てか、今夜はやっと眠れそうなんで……」
 あ、そっか。きっと鷹水さんは、文机の灯りのせいで眠れないのかもしれない。わたしの枕のそばなので、消すために手をのばす。すると、「つけとけ」と言われた。
「……え? わたしはいいけど、鷹水さんが眠れないんじゃ……」
「いいから、もうしゃべらねえで黙って寝ろ」
 わたしは満足して目を閉じる。
「……とにかく、昼間いなくなるのはナシですよ」
 しつこく繰り返すと、鷹水さんは「わかった、わかった」と、子どもをあやすみたいな声音で答えた。
 外から聞こえる虫の鳴き声が、しんとした部屋を包んでいく。
 すっかり寝入ってしまう寸前、額を優しく撫でられた気がした。ありえないのに、なぜか母さんかなと思う。でも、少ししゃがれたみたいな声がして、母さんじゃないとわかった。

 ──おまえの顔が見えるから、明るいまんまがいんだ。

 誰かとこんなふうに過ごしたような気がする。
 いまと似たようなことが、ずっと昔にもあった覚えがある。それがいつで誰とだったか、やっぱりわたしは思い出せない。そうして思い出せないまま、深い眠りにおちていったのだった。

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