top of page
cider_logo.png

弐ノ章

詐欺師、泥棒、殺し屋の過去

其ノ11

 ……帰れなかった。
 回れ右して逃げようとしたものの、竹蔵にがっつり襟首をつかまれたからだ。
 以後、その格好のまま歩くはめになった。いっそファイティングしようかと思ったものの、竹蔵にはさっきの二人組みたいな〝隙〟がまるでない。
 ひょうひょうとした顔つきで歩いているだけなのに、身体全部でわたしの行動を監視しているような気配を漂わせてる。もしも拳を振り上げようものなら、絶対にこっちがのされる予感がする!
 間違いない。竹蔵はただ者じゃない。
 大きな通りを渡ってから、薄暗い路地に入る。路地は迷路みたいに入り組んでいた。洋風の木造建築と、伝統的な日本家屋が、ぎゅうぎゅうに隣接している。
「……で、いったいどこに向かってんですか。これ」
 左右に顔を向けてみる。二階の窓からちらりほらりと女性が顔を出して、こちらを見下ろしていた。さらに、人通りのない狭い道にぽつぽつと、女性が立っている。しかも、薄い布地の着物姿で。その着物は、わたしも着ている。そう、この着物の……下にね!
 だからその着物は、下着的なやつなのでは……?
「あらー、どうしちゃったの、竹サン。さっき帰ったばっかりじゃないか」
 煙草をくわえた女性が、一軒の建物からあらわれる……って、ちょっと! 下着的着物の胸元が開きすぎてて、見えてる! 胸、もう全然見えてるし、隠してそれ!
 呼ばれた竹蔵は、女性に近づいた。はっとしたわたしは周囲を見まわす。
 なぜ気づかなかった、山内椿! もしやここは、キャバクラ的な集合エリアじゃん!?
 にしても、キャバクラよかなんかいろんな意味で濃い気がする。
 むしろ、これって……まさかのフーゾク的な……!
「よし。逃げよう」
 ぐるんときびすを返したとたん、「売りゃしないって!」と、竹蔵に袖を引っ張られた。
「売りゃしないよ。洒落た馴染みの女がいるから、あんたをなんとかしてもらおうと思って連れて来ただけだ。それにここは遊郭じゃない。娼窟だよ」
 はあ、なるほど……って、すんません、違いがわからない。
 洒落た女とは、竹蔵に声をかけた、胸が丸見えの女性のことだった。
 リリィさんと呼ばれているらしい。身長はわたしと同じくらいで、すらりとしている。かなり年上な感じで、目尻にほっそりと皺がある。薄い印象の顔立ちなのに、ほのかに立ちのぼるこの、表現できない美女的気配はなんなんだろうか。
 眉はきれいに抜かれていて、反対にアイメイクはバッチリ。煙草をくわえたままわたしを見ると、リリィさんは真っ赤な唇をにんまりとさせた。
 妖怪に……女子に化けた蛇に……食べられる!
「うっ」
「きれいな娘だねえ。……けど、色気はないね。入りな」
 でた。謎のキーワード、色気……。
 竹蔵に背中を押されて、建物の中へ入る。昼間にもかかわらず、窓には真っ赤なカーテンが下がっていた。
 カウンターがあり、窓際にはソファとテーブル、椅子がいくつも置かれている。カウンターの横に階段があり、数人の女性がそこから顔をのぞかせて、くすくすと笑っていた。
 リリィさんが入り口の扉を閉めた。
「人形遊びが好きだったからね。女をいじくるのは大好きだよ。毎日毎日、男ばっかり見てるからさ。それでも、竹サンみたいなきれいな男なら、いっくらでも相手したいところだけど、そーもいかないのが、この商売のしょうもないところなんだよねえ」
 そう言ったリリィさんは、煙草を消すと胸をはだけたまま階段を上って行く。竹蔵は階段から顔を出している女子たちと、なにやらこそこそと談笑していた。
 やがて、リリィさんが下りて来た。抱えていた着物をテーブルに広げてから、小さな巾着袋を開けた。
「竹サン、流行のモダンってのに、すればいいんだろ?」
 リリィさんは巾着の中から、なぜかハサミを取り出した。いまだ階段下で談笑する竹蔵は、こちらを振り返って同意をしめす。わたしはごっくんとつばを飲み、フリーズしたまままぶたを閉じた。
 まあいい。売られるわけではなさそうだし、〝大柳〟とか言うしつっこい誰かにスルーしていただくためにも、全身イメージを変えなければならないのだ。
 それに、ひとまずはココで生きるとしかないんだと覚悟を決めたのだから、いっそどんどん巻かれていこう、長いモノに!
 ぎゅうっとまぶたを閉じたわたしの耳に、リリィさんのあやしげな低い声がとどいた。
「マダム・リリィにまかせな。いい女にしてやるよ、お人形ちゃん!」
 ごめん、やっぱ帰りたい!

 

♨ ♨ ♨

 

 首が寒い。
 空はすっかり、夕闇だ。群青色の衣をまとった富士山の輪郭の向こうに、淡い色の巨大な満月が浮かんでいる。建物から明かりがもれて行き交う人びとを照らし、通りに落ちた濃い色の影が、影絵みたいにうごめいていた。
 手で首に触れると、すっぱりと髪がなくなっている。自分の見た目に無頓着だったけれど、はたしていまの自分がモダンなのかなんなのかは、鏡を見せられたけどわからない。
「いいじゃあないか。着物の丈はちゃあんと合ってるし、ほうら、男らがあんたを見て振り返って行くよ」
 竹蔵が言う。だとすればそれは、わたしの着物が派手だからだ。
 リリィさんのお下がりだという着物は黒で、袖と裾にはグレーと白と赤の、幾何学模様の柄が織られてある。そのうえ、帯は真っ赤。さらに、わたしの髪はおかっぱなのだ。
 伸ばしっぱなしだった前髪は、パツーンときれいに目の上で、横も襟足も耳の下一直線。
 そして、きわめつけは髪飾りだ。花をかたどった黒い髪飾りを、頭の横のあたりに添えるのが、どうやらリリィさん的にはモダンらしかった。
「まあ、でも、別人みたいにはなった、のか、これ?」
 横を歩く竹蔵が、ちらっとわたしを横目にした。
「なったねえ。ああ、気分がいい。きれいな娘を連れて歩くのは、気分がいいよ、最高だね。そうだ、寿司食べさせてやるよ。好きかい?」
 な・ん・で・す・とー!?
その言葉で、竹蔵は要注意人物だという項目が、わたしの脳内から吹っ飛んで消えた。
「マジで! 貧乏だったから、お寿司とかずうっと食べてないよ。お腹空いてるしすっごい嬉しい。食べる、食べる! あ、でもわたし、お金ない!」
「アタシが払うから、金の心配なんかすんじゃないよ」
 竹蔵が嬉しそうに笑った。
「……まっすぐ育ってんだねえ。ツラのよさに甘えてない。いい娘だよ、あんたはホントに」

 

♨ ♨ ♨

 

 まさかあの世で、お寿司が食べられるとは思わなかった。
 感激しすぎて泣きそうになったものの、いまごろ父さんはどうしてるかなと、ふいに思う。心配したところで戻れないのだから、どうしようもない。だから〝元気だよ〟という念を送っておいた。こういうのって、ちゃんと通じる気がするから。
「ずいぶん食べたねえ、あんた」
 ひとしきり食べたあと、前屈み気味で寿司屋を出た。
「ご、ごちそうだまでしたっ! ありがとう、最高においしかったよ! てか、く、苦しい。帯が……」
 ……きつい。それはそれとしても、お寿司に浮かれてる場合じゃない。いま竹蔵が払ったお金って、収入源はどこから出たものなんだろ。
「あ、のう。お金って、どのような感じになってるんですか? 竹蔵さん、働いてるんですか?」
「んなわきゃないだろ。生きてたころに持ってた金が、そのまんま残ってて使えんのさ。誰が死んでんのに働くんだよ。まあさ、そういうやつらもいるから、こうしてうまいもん食べて、遊べるってのはあるけど、死んでまで働くなんざ、アタシはゴメンだね」
 残ってる? それも執着、記憶の一部、ということなのか。
「はあ……生きてたころに、ですか……。ってことはさ、竹蔵さんて、お金持ちだったんだね」
 もしかして、生前は道楽者のお坊ちゃんとか? いやでも、そんなお坊ちゃんが牢に入れられるわけがないしなあ。
「金持ち?」
 竹蔵が立ち止まった。
「いやあ、まあ、遊び方とか、いろいろ激しそうだなーっていう。働いてないのに、そんだけ持ってるってことは、生きてたときに持ってたってことでしょ? だったら、そうとしか思えないなあ、と……」
 すると、両袖に手を入れた竹蔵は、ふっと含み笑いを浮かべた。
「……金持ちねえ。まあ、持ってるよ。たんまりね。その代わりに裏街道を走ってきたんだ。さあ、しょっぱいしゃべりは終わりだよ。どうれ、帯見せな。ゆるめてやる」
 わたしの帯と着物の間に指を入れて、ぐぐぐと持ち上げる。持ち上げながらにやっとし、竹蔵はわたしをじっと見る。そんな竹蔵をなにげなく見返していたとき、ふと気づいた。
「あ! ハシさんと雨市……」
 なんでか雨市に〝さん〟は似合わない気がして、躊躇してしまう。かと言って呼び捨てもしっくりこない。〝うーさん〟はセツさんオリジナルって感じがするし、ほかになにか、ちょうどいいっぽい敬称は……って、そうだ!
「……〝氏〟にも」
 しっくり、きた!
「お寿司、買って行きたい気がするんだけど……お金持ちの竹蔵さんにお願いしたいのですが、ダメ……っすよね」
 わたしの帯に指を入れたまま、竹蔵は目を丸くした。そこまでは払えない、ってことみたいだ。そう、っすか。
「……ですよね」
「いや、いいよ。ただ、驚いただけだ。ほかの奴のことも気にすんだね、あんたは」
「はい?」
 やっと帯から、指を抜く。あ、楽になったかも! わたしが喜ぶと、竹蔵はふふふと、ずいぶん優しそうな表情で笑った。
「いい娘だ。気に入ったよ」

<<もどる 目次 続きを読む>>

bottom of page