壱ノ章
金銭欲は地獄の入口
其ノ4
えんまのふで、だと、元鬼は言った。
その〝えんま〟とは、地獄の〝閻魔大王〟のことだろうか?
元鬼の足首にしがみつきつつ首を傾げると、深いため息がわたしの頭上に落ちた。
「……小娘。おまえはあれか。こいつを質にでも入れて、金に換えようとしてんのか?」
質屋じゃないけど、売るという意味では同じだ。
「……はあ、まあ」
得体のしれない〝妖怪幽霊お化けミックス〟に対して、フラットに接してる自分もどーかと思うけど、筆を渡すわけにはいかないというある種の欲が、わたしから恐怖心を奪っているのだろう。それにまあ、これ、やっぱ夢(と、思いたい)かもしんないし?
「そうか」
なぜかいきなり、元鬼の口調が穏やかになる。どうしたことかと、そうっと顔を上げて上目遣いにすれば、わたしに足首をつかまれたままの元鬼はゆっくりとしゃがみ、他人を慈しむみたいな眼差しを、黒髪からのぞかせた。
「そうか。おまえもあれだな。苦労してんだろ? 俺にはわかる。このツラを見ろ」
かわいそうな野良犬に、話しかけるみたいな口調だった。元鬼はしゃがんだ膝に肘をあて、親指でくいっと自分の顔をしめす。
「混血だ。ガキのころからこのツラのせいで、苦労しすぎて性根がくさってこのありさまよ。おまえもそうだろ?」
なにか誤解されてる気がする。混血って、ハーフってことかな?
「ああ、それよく言われるけど、わたしは生粋の日本人だよ。あれ? ってことは、あんたやっぱりハーフなんだ!」
「はあふ……ってのはあれだな。おまえ特有の外来語だな。そいつが混血って意味の外来語なら、まあ、そうだ。とにかく、おまえがいろいろ苦労してきたのは、俺にも伝わったってことだ。金にも困ってんだな?」
そのとおり! 大きくうなずくと、元鬼は優しく微笑み、軽くうなずいた。
「じゃあ、こうするのはどうだ? 詳しくしゃべってると朝になっちまうからかいつまむが、この筆と似たモノがあと百七本ある。まだ探しきれてねえのも三本あるが、どっちにしろ、ホンモノかニセモノかは、娑婆で……いや、こっちの世界で調べられねえ。危険すぎるからな。だから、俺が一度、こいつを持って帰る。もしもこいつがニセモノだったら、おまえに返してやる。ニセモノなら、俺にも用はねえからな」
ああ、なんだ。それならべつにいい。
「マジ、ですか?」
元鬼が顔をしかめた。〝マジ〟の意味がわからないのだろう。だからわたしは言いなおす。
「……ホントですか? てことです」
ああ、と元鬼は、神妙な面持ちでうなずいた。
しかしすごい。少女マンガから飛び出したみたいな、素晴らしく美しい顔立ちだ。額にかかる前髪からのぞく、大人びた色っぽい双眸。形のいい唇に、バランスのとれた鼻筋。なんかもう、これは絵だ、絵みたいな顔だ。
わたしはイケメン好きじゃないけど(そもそも男子全般がいやだ)、もしもここに衣心に群がる女子たちがいたら、速攻で衣心なんて邪見にされるだろう。
ふふふ……それはかなり見てみたい光景だ。無理だけど。
「で、だ。もしもこいつがホンモノだったら、向こうにたんまりあるニセモノの筆を一本、代わりといっちゃあなんだが、おまえにくれてやる。どうだ、これは取り引きだ。悪くねえだろ?」
悪くはない。納得しながら、元鬼の足首からタオルケットともども手を離す。すると元鬼は安堵の息をつき、おもむろに立ち上がった。
「じゃあな、約束したぜ」
そう言って、畳を踏みしめるためか軽く片足を上げた。瞬間、企み完了といわんばかりに、一瞬口角を上げた。
……待てよ。もしかしてわたし、騙されてない?
すかさず元鬼の足首にタオルケットを巻き付け、今度はぐいっと手前に引っ張った。もちろん元鬼は「うお!」とのけぞり、ドシンと尻餅をつく。
「なにしやがる!」
「ちょっと待て。なんかいまの超嘘っぽい。だってさ、あんたがそれ持って水木しげるワールドみたいなどっかに帰ったとして、娑婆? てか、こっちに戻って来る保証なんかないじゃん。でしょ?」
尻餅をついた恰好で、畳に左肘をあてた元鬼は、顔をそらしてひとりごちた。
「最近やってねえから、へたうっちまった」
やってねえって……なにを? 元鬼の優しげな表情は一転し、こちらをぎろっと横目にする。その表情にげんなりさせられたわたしは、半眼になりながらあぐらをかいて、元鬼と対峙した。
「……女子の勘をナメんな。やっぱ嘘だったんだ。あんた、そういえばわたしが納得すると思って、はじめからこっちに戻るつもりとかなかったくせに、嘘ついたんでしょ。嘘つきは泥棒のはじまりなんだよ、この詐欺師め」
けっ、と元鬼は笑った。
「だからどーした。こちとらどうせ罪人よ。他人を騙すのが俺の商売だ。ずいぶんやってねえから、勘がにぶっちまったんだな。それともおまえの勘がいいのか。どっちにしても、こんなことでもねえかぎり、おまえみたいな小娘をひっかけるなんざしねえよ。ああ、面倒くせえ」
他人を騙すのが……って、それ、詐欺師ってこと? たぶんそうだ、そういうことだ。
こいつ〝妖怪幽霊お化けミックス〟プラス、詐欺師なんだ!
筆の入った箱を手放すこともなく、よ、っと元鬼は立ち上がる。
タオルケットを足蹴にして大きく息を吸い込むと、離れた場所にある燭台のろうそくめがけ、ふうっと息を吹きかける。
ろうそくは消え、部屋が闇に包まれたとたん、元鬼はドシンと畳を踏みしめた。てんぱったわたしが「ちょっと!」と叫ぶも、元鬼の姿は……。
……元鬼の姿は、まだあった。
「……蓋、閉まっちまった」
暗闇の中で声がする。蓋……って、なに?
同時に舌打ちをした元鬼は、わたしの横を通り過ぎた。闇に慣れた目で姿を追えば、元鬼は窓のカーテンを引く。のどかな盆地を照らす月明りと、坂道に点在する街灯の光が射し込んで、周囲がはっきりと見えた。
元鬼は着物の袖から下駄を出すと、わたしの部屋で履き、窓枠に手をかける。そして、筆の入った箱を着物の胸にぐいっと押し込み、
「霊道があるな。乗っかるしかねえ」
そうつぶやいて窓を開け放ち、外へ飛び出した。その様子をぼんやり眺めている……場合じゃないって!
わたしはすぐさま障子を開けて、スリッパをつかむ。奴を追いかけるため外へ飛び出し、スリッパをつっかけて駆け出した。
車が一台も通らない、舗装されたゆるやかな坂道を下る。
元鬼の下駄の音が、不気味にこだましていた。その音をたどって追いかければ、すぐに灰色の着物の背中が見える。
闇夜に浮かぶ満月が大きい。
オレンジ色の光を放つ街灯の明かりが、いつもよりも暗く感じる。
坂道を下れば、小さな商店と一軒家とバス停が見えてくるはずなのに、どんなに走っても前方に、それらがまったく見えてこない。と、元鬼が立ち止まる。左へ顔を向け、山へとつながるうっそうと繁った林の中へ姿を消した。
あっ、と思ってスピードを上げたわたしの足から、スリッパが飛んだ。拾う時間がもったいなくて、裸足も気にせず走る。氷の上を走っているかのような冷たさが、足の裏に伝わってきた。
なんでこんなに必死になって追いかけているのか、自分でもわからなくなる。
筆なんて、くれてやればいい。どうせ放課後は暇なのだ。バイトをして地道に稼げば、諭吉の二枚や三枚くらいすぐに稼げる。そう思うのに、まったく足が止まらない。
元鬼が姿を消したあたりの、獣道のような山道に入る。草と小石が足の裏にあたって痛いから、つま先立って着物の背中をひたすら追う。
追いながら、心のどこかではわかっていた。木々の枝葉が空を隠し、墨汁にひたされたかのように暗い林の中だというのに、元鬼の、灰色の着物と黒い袴姿の周囲だけは、ぼんやりと青白くわたしの目に映る謎。
それはたぶん、すでにここが——あの世とこの世の境界線、だからだ。
子どものころ、まだ生きていた母さんは、眠る前のわたしにたくさんの物語を聞かせてくれた。
妖怪、幽霊、お化け。不思議で怖いそれらのお話に、慣れているといえば慣れている。
寺の子どもだから、あの世とこの世を信じているし、それがどういうものかも漠然とは知っている。だからこそ、ここがそうだと直感したのだ。
「ちょ……っ! 待ってってば!」
息が上がっているのに、足は勝手に前へと進む。
「待って、つってるじゃん!」
わたしの大声が林にひびいた。立ち止まった元鬼が、肩越しに振り返る。ぎょっとすると、すぐに険しげな表情に変わって、
「……なにやってんだ、いますぐ帰れ!」
叫ばれた。
立ち止まった元鬼めがけ、けれどもわたしの足は進む。なんだか誰かに、ぐいぐいと背中を押されているかのようだ。やがて元鬼に近づくと、その目の前でピタリと足が止まった。
「いますぐ帰れ! ここから先は、おまえが来るようなところじゃねえんだよ! もう霊道が伸びてきてる、早くしろ!」
「れ、霊道て……、わ、わかってるってば! だ、だけど足が勝手に動くし、それにやっぱさ、その筆返してよ。そしたらすぐに帰るから!」
元鬼はわたしのTシャツの胸ぐらを握って引っ張り、ぐいっと顔を近づけた。
「……気づいてねえな。半分は時間くっちまった俺のせいだ。だいたい娑婆の人間どもは、あの鬼の姿を見たら失神するのが常だ。それがどうだ、おまえは失神するどころか、俺に食いついてきやがった。欲もほどほどにしろよ、小娘。その欲がおまえを取り巻いて、俺の足にしがみつけるようにしちまったんだ。それはな、おまえがもう、こっちに片足つっこんじまってるって証拠だ」
胸ぐらが押された。うしろにつんのめって転びそうになったものの、足にからみつく草のおかげで、そうならずにすんだ。
……いや、違う。
草が、両足を這う感覚がある。ぞわぞわと無数の虫が、足首あたりに這っているみたいな感触を感じたものの、あまりの恐怖で見下ろせない。
ひたひた、ぺたぺたと、わたしの足をたたいたり、巻きついたりしているこれは、けれども百パー虫じゃない。
草が勝手に伸びて……動いてる!
「ほうら、お迎えだ」
人間は心から恐怖を感じると、叫ぶこともできないらしい。
ひとつお利口さんになった……って、そうじゃない!
怖すぎる! 本気でホラーだからこんなの!!
フリーズして突っ立っていたら、元鬼はふたたびわたしの胸ぐらをつかみ、今度は力いっぱい自分に引き寄せた。
「しょうがねえ。恨むならてめえを恨むんだな。ここから先はおまえがどうなろうとも、俺はいっさい関わらねえぜ」
瞬間、わたしと元鬼の上半身まで草が伸び、繭のように包んでいく。同時に、ずんっ、と地面に、身体が引っ張られた。
ずるずると地面に、下半身、そして上半身がめりこんでいく。
生暖かい土は、まるで泥の沼みたいだ。どこまでも深い、底のない沼。
やがて、頭までのまれる。その沼のような地面に吸い込まれて以後、意識を失ったのでよく覚えていない。ただし、わかっていることがひとつだけある。
わたしは諭吉を欲するあまり、訪れてはいけない世界へ、足を踏み入れてしまったのだ。
♨ ♨ ♨
という……ものすごい夢を視た。
目覚めたときは正直なところ、そう思った。だけどやっぱり、夢じゃなかったんだ。
見覚えのある顔は、目覚めたわたしを鋭く見下ろしながら、言った。
「いまのおまえを、なんつーか知ってるか? こうだ。〝狼の中に、羊が一匹〟」